映画「本心」:母の本心は結局何だった?平野啓一郎の原作から答えを解説!

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平野啓一郎原作・石井祐也監督の映画「本心」は、主人公・朔也が、母の本心を知るべく、AIや、関係する人物と交流していく物語です。

朔也の母・秋子は、自由死を願っていたが、その本心が分からないまま亡くなってしまいました。

映画のラストで明かされた「本心」が一体何だったのか?どういうことなのか?分からないという声も聞かれます。

そこで、より細かな描写のある映画の原作小説から、母の本心について探っていきたいと思います。

映画では、原作にアレンジが加えられています。映画の予告はこちら。

母の本心を探る証言たち

証言1.自由死を打ち明けた時の母の言葉

原作小説では、生前、母は朔也に自由死をしたいと下記のように相談しています。

「お母さん、もう十分生きたから、そろそろって思ってるの。じっくり考えてのことだから。

すっと考えてたことなのよ。この歳になれば。もう十分なのよ。」

「何にも不満はないのよ。お母さん、今はすごく幸せなの。だからこそ、できたらこのまま死にたいの。どんなに美味しいものでも、ずっとは食べ続けられないでしょう?もうそろそろねって、自然に感じる年齢があるのよ。」

「これはお母さんが、自分の命について、自分で考えたことなのよ。お母さん自身の意思よ。」

「お母さんはね、朔也と一緒にいる時が、一番幸せなの。他の誰といるときよりも。だから、死ぬときは、朔也に看取ってほしいのよ。朔也と一緒の時の自分で死にたいの。それが、お母さんの唯一のお願い。あなたの仕事も、家を留守にしがちだから、お母さん、万が一、あなたがいない時に死ぬと思うと,こわいのよ。」

(平野啓一郎著:「本心」より)

最初から、母は、自由死したい理由を明確に語っています。

しかし、朔也は、その言葉が本心からのものなのかどうか疑います。

弱い者を排除しようという社会の風潮により、そう思わされているだけだと、受け入れることができません。

そこで、母の本心を探るため、母の自由死の願望を知っていた人物に話を聞きに行きます。

証言2:主治医の富田の話

富田は、母秋子の自由死の意思を確認し、承認した医師です。

病院の待合室には「自由死」についての本が置いてあり、「自由死」に賛成している立場だといえます。

医師が自分から自由死を勧めることはないが、本人が自由死を望んだら、それは受け入れるべきだと言います。

母が何故自由死を望んだのか、朔也は尋ねました。

「あなたのお母さんの自由死の意思は、とても強いものでしたよ。経過観察中も、一度も揺らいだことがなかったし、精神的にも、非常に安定していました。お母さんはちゃんと自分で判断してるんです。本心から。お母さんはとても冷静でしたよ。」

「お母さんは、このあと十五年以上、自分で長生きしてお金を使うことと、子供にそのお金を遺すことと、どっちが幸福かを考えて、自由死を決断したんだ。(そう)直接は言いませんよ。けど、彼女が説明する状況を総合すれば、そうとしか考えられないでしょう?」

(平野啓一郎著:「本心」より)

富田は、お金のために自由死を選び、それは当然のことなのだと言いきりました。

証言3:三好の話

朔也は、さらに、母の友人である三好に連絡を取ります。

三好は、母と同じ旅館で働いており、プライベートな話もかなりしていました。

「(働いていた旅館で、人員削減で朔也の母が辞める辞めないの話が出てきた頃から、)お母さん、やっぱり、将来を心配してた。」

「朔也君のことでしょう、一番心配してたのは。…全部を。」

「自分が働けなくなったあと、預金でどれくらい二人で生活していけるか、計算してたから。それに、働けない体になって、介護が必要になった時のことも。施設にはとても入れないけど、朔也君、仕事があるから、自宅介護もできないでしょう?介護が必要になってから、自由死をしたいって言っても、朔也君が絶対に認めないから、その前に実行したいって。」

「(本当に)言ってたよ。一度じゃなくて、何度か。」

「わたし、・・・やっぱりお母さんは、本当に、自由死したかったんだと思う。自分の考えで。聞いててそう感じたから。表情とか仕草から」

「朔也君、本当に分からない?『もう十分』っていう感じ。言ってたよ。本当に朗らかな顔で、『もう十分』って。」

(平野啓一郎著:「本心」より)

足りなくなるお金のこと、介護の負担などを考えつつ、母はもう本当に「もう十分」と感じて決めたのだと言いました。

富田も三好も、母の考えに違和感なく共感していますが、朔也はまだ、理解することができません。

証言4:朔也の同僚、岸谷の意見

「そう思わされてるんだよ、それは。本心じゃないね。」

(平野啓一郎著:「本心」より)

岸谷は、朔也と同じ「リアルアバター」の仕事をしており、朔也に近い感覚を一部分では持っています。

朔也と同じく、「もう十分」と思うのは、社会の生きづらさによると考えます。

しかし、家族を愛しているという事情については、「俺に分かるはずもないだろう?」とも述べています。

「愛」を知っているかどうか、それにより、考え方がまた変わっていくということも示唆されています。

参考文献:藤原亮治の小説

母は生前、小説家藤原亮治の小説を愛読していました。

富田は朔也に、母の本心が知りたいのであれば、藤原亮治の小説を読むことを勧めていました。

三好については、母は藤原亮治と深い関係だったのでは、とも述べます。

そこで朔也は、藤原亮治の小説をいくつか手に取ります。

「波濤」

女性が、ドッキリ番組で、芸人と疑似恋愛をする。芸人は本気になったかのように見えたが、告白しようという直前に、車にひかれて死んでしまった。その彼の、『死の一瞬前』に映っていたのは、どこか遠い彼方のようだった。彼の本心は最後まで分からなかった。

母の言っていたのと同じ、『死の一瞬前』という言葉に、朔也ははっとしました。

『ダイモーン』

母が30代の頃に買った本。

戦争体験によるPTSDや、壮絶な人生に疲れ果てたソクラテスが、自由死を願っている姿が描写されています。

『高瀬舟』を現代化した戯曲。

貧しい兄弟の弟が体調を崩し、「もう十分生きたから、楽にさせてほしい」と懇願し、兄はそれを受け入れます。

母は、こうした小説から、じわじわと、自由死の概念を取りいれていったのかもしれない、と朔也は考えます。

下半身不随の有名アバターデザイナー:イフィの意見

イフィは、朔也の人生を好転させるきっかけとなる人物です。

世界的に成功している富裕層ですが、障害を持っており、社会的にお荷物になる可能性もありました。

その立場から、藤原の戯曲を元にした映画について「自由死を肯定している」と批判し、「自由死したい人なんていないと考えるべき。」と持論を述べます。

「誰だって、命は惜しいんだっていうのは、この社会が絶対に否定してはいけない前提です。」

「国家が何もしなければ、ますます自己責任になる。家族任せになったら、弱い立場の人は、家族に迷惑がかかるって、自分を責めます。死にたいんじゃなくて、いなくなった方がいいって考えてしまう。歳を取って、体力が衰えてくれば特に。」

(平野啓一郎著:「本心」より)

正義に憧れるイフィらしい正論ですが、それに対して三好は、

「わたしは、本当に辛くなった時には、もう生きるのを止められると思うと、安心できる。」


と反論していました。

母と親交のあった小説家:藤原亮治

藤原亮治は、一時期母と交際していたことを明かします。

しかし、その頃、母から自由死の願望を聞いたことはないと言います。

「むしろ、その願望を語ったのは、僕の方です。

生きている人は、死にゆく人を一人で死なせてはいけない、一緒に死を分かち合うべきです。そうして、自分が死ぬときには、誰かに手をにぎってもらい、やはり死を分かち合ってもらう。さもなくば、死はあまりに恐怖です。」

「(人生のあらゆることは、予定を立てるのに、)死だけ例外扱いすべきではない。他者と死を分かち合うというのは、臨終に立ち会うだけじゃない。時間を掛けて、一緒に話し合う時間を持つ、ということです。」

(平野啓一郎著:「本心」より)

社会から死を強制されないために、時間を掛けて、死について親しい人と語り合うべきだと言います。

現在浸透している、自由死の概念とは少し違った考えを持っているようです。

朔也と母には、藤原亮治の言うような時間をかけて話し合う時間は持てなかったことが、行き違いの原因になって可能性も示唆される発言です。

朔也は「心の底から満足して『もう十分』と言う人もいれば、深い絶望感から、『もう十分』と言う人もいます」と訴えます。

すると藤原は、

「七十歳という年齢で、あなたのお母さんが自由死を願い、それに僕の本と僕の存在が影響を及ぼしているのなら、・・・何かが間違っているのかもしれない。それを書く時間が、僕に残されているかどうか。」

と述べ、母の自由死を肯定しているわけでは決してありませんでした。

藤原は、朔也の出生の秘密を話してくれました。

母は、知人女性と子を育てようと見知らぬ男性から精子提供を受けたが、女性は逃げてしまい、一人で子育てすることになったのでした。

朔也はこの事実に衝撃を受けます。

朔也が出した結論:「母の本心」とは?

朔也は最終的に、こう考えます。

母なりに、人生と果敢に渡り合っていたのだった。

実際に、母を追い詰めたのはこの社会だった。

母は、かなり奇抜な方法を選んでまで、「もう十分」という失意の底の底から抜け出して、どうにか『普通』であろうとしていた。

そして、母にとって、この僕こそは、いつまでも『普通』から逸脱したままの、どうしても取り繕うことのできない現実だった。

母がもし、僕にその人生のすべてを打ち明けていたならば、そして、僕がそれを理解してあげられるほどに、十分に成熟していたならば、その時には、やはりこう言ったのではあるまいか。

―「お母さん、もう十分だよ。」と。

母がどんな心境で僕を生んだのかは、わからなかった。しかし、一つだけ確かなことは、母は『死の一瞬前』には、誰かとして生まれた、その僕といる時の自分でいたいと、心から願っていたのだった。

僕は母から愛されていた。もしその一瞬に、立ち会うことができていたなら、僕に伝えられたのは、ただ、感謝の気持ちだけだっただろう。その言葉によって引き起こされる反応が、母の胸に満ちること以上に、死を前にして、どんな望みがあるだろうか。……

いままで聞いてきたすべての話が、合っていたのだと思います。

しかし、どういう気持ちで自分を生んだのか、自由死に対して朔也が違う反応をしたときの母の本心は、この先も分かることがないでしょう。

しかし、確実に母の本心だといえること。

それは、

「愛する息子と、最後まで愛を分かち合って死にたい」

これに尽きていました。

まとめ

小説『本心』は、主人公・石川朔也が母・秋子の「自由死」の真意を探る旅を描いていました。

母は、「もう十分生きた」と語り、自らの死を選択していました。

母の友人や主治医の証言から、母は将来の経済的負担や介護の問題を懸念し、息子に迷惑をかけたくないという思いがあったことが明らかになります。

また、秋子の愛読小説や、藤原との関係から、自由死の概念が形成されていったことも伺えました。

最終的に、朔也は母のその時々の「本心」は、分からないが、息子への深い愛情だけは間違いない事実であったことを理解しました。

本心や、価値観の形成なんて、自分でもよく分からない部分もありますよね。

思い込もうとしていることが、次第に本心になっていくこともあります。

その中でも変わらない、朔也への愛に、朔也が気づけて良かったなと思います!

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